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2012年6月18日 (月)

魂のセルフクリーニング

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 “環境破壊と闘おう”といった言葉をよく耳にするよね。地球にやさしくとか、自然を大切にとか、オーガニックにこだわろうとか。だけどちゃんと自覚した上でそうした言葉を唱えている人って、実はいないのかもしれない。そういった、自分たちが信じる正義のための運動もまた、一種のジハード、つまり善悪を盾にとった新種の“聖戦”だということを。「剣によって生きたものは、剣によって滅びるであろう...」時代が移り、その形は違っても、僕たちは変わらず剣で命を落とし続けている。つまり、自分たちの思い込みとそこから生じる争いにまみれたまま死んで行く...環境破壊の本当の原因はそこにあるんじゃないかな。他のどこでもない、僕たちの頭の中に。なぜなら外の世界で見えていることは何だって、いちばんはじめは僕たち自身の中で生まれたことだから。僕たちの頭や心の中で“思い”という形から始まっているんだ。ひとつの例外もなく。

 新約聖書は、その上に擦り付けられた垢みたいなものをきれいに取り除いてやると、航海のための最良の道具になるのだけど、その中ではいちばん厄介な“罪”とは“魂に対する罪”だとされている。この考えは、思い込みというものの作用をよく物語っていると思う。僕たちは一人ひとりがそこに、“時空”すなわち“魂”に他ならない無垢で創造性豊かな“神殿のような空間”の中心にいて、自分たちの二元性とそこから生じるあらゆる裁きによってそれを汚してしまっている。

 “魂は、あなたがその中に入ったときに出会ったままの状態にしておきなさい”従うべきはこの言葉。“神さま”と称される“原理”にとって、僕たちがやったつもり、あるいはやっていないつもりのことなどどうだっていいんだ。世界は“純粋”な状態より他に、よりよく機能することなど決してないのだから。純粋とはつまり、どんな立場もとらないゼロという明瞭な状態のこと。“罪”とは単なる“過ち”。倫理的ではなく、あくまで“科学的”な意味としてね。要するに魂に対する過ちとは、魂の法則の間違った使い方をしてしまうことで、だから自ずと痛みを負ってしまう。そうした意味で“魂に対する罪”は厄介なんだ。もしも僕がハンマーを握って自分で自分の頭を叩いたら、僕は自分でそれをやめるまでずっと、痛い思いをし続けなくちゃいけない。どんな言葉で祈ろうと、痛みを止める方法に自分で気づかない限り、何も変わらない...

じゃあいったい、どうすればいい?
1)たった一つの本当の“汚染”は、自分の中にある。他のどこにでもなく。まずはそこを理解しよう。
2)世界はただ、自分の中にあるものを映しているだけ。そのことを知っておく。そうすることで、自分が魂の“法則”の使い方を誤ったとき、それに気づくことができる。
3)違和感のようなものを覚えたらそれは、魂を本来のあり方とは違う方法で使ってしまっているせい。それに気づいたら、あとは原因である汚れを取り除けばいい。
4)魂には本来、自浄作用が備わっている。だから自分の“主義主張”とやらを手放すだけで、薄汚れた理念はひとりでに消え去ってきれいになる。
5)“神さま”のために考えるのはやめて、神さまに自分たちのために考えてもらう。つまり「わたしは何もしらないし、あえてわかろうともしない」という立場をとる。そして“管制塔”の指示に耳を傾けよう...

 とにかく、どんな思想も世界をどうにかしたいという欲求も入っていない、空白の心を持ち続けることが秘訣。精神を穏やかに、オープンに保つこと。余計なものは要らない、錆びついた車のフレームも、プラスチックボトルも、ピクニックの食べ残しも、撲滅キャンペーンも、疑問も...何にも汚されていない、全てを受け入れる無限の広がりだけがあればいい...“インスピレーション”を受け止めることができるのは、ただ、その中でだけだから...

(Translation Y.Usui)

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コメント

ありがとうパトリスさん。

投稿: ノリリン | 2012年7月 7日 (土) 01時24分

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